「フラクタルの種」冊子に込める思い

  教育場面では、ある人の子供の頃の行動の癖が、大人になっても垣間見られることが多いものです。小さかった頃と大きく成長した後の行動に自分の中の「自己相似」があることは、部分と全体の中に「自己相似」を発見する「フラクタル」という考え方にも似ていて、部分の集積が全体を形作るという見方にも通じます。私は、このようなフラクタルの考え方は、教育の様々な場面に生かせるのではないかと思います。 

 たとえば外国語では、外国人のちょっとしたしぐさや態度や発音の小さな特徴を真似して外国人になりきって話そうと意識すると実践的で、「ホット・ドッグ」では通じなくても、「ハッ・ドッ」なら通じたというような体験をした人も多いでしょう。また、スポーツにおいても、歩くとき、走るときの一歩一歩の癖は、全力で歩いたり走ったりするときの癖に似ているので、一歩一歩のゆっくりした動作を、合理的で正確な動作にこだわって指導することで、全力疾走のスピードにつなげるという指導法は効果的です。さらに、絵画の一筆一筆、包丁の一回一回の刻み方、音楽の旋律の繰り返し、文章の書き方等、多くの人々の動作や表現の細かな部分の一つ一つは、よかれ悪しかれ、各人が独自の何らかの癖を持っていて、その癖は各人が完成させたもの全体の中にも垣間見られように感じます。そう考えてゆくと、教育においては、基本を重視しようという考え方につながります。基礎を重視し、繰り返し正確に行ってゆくことで、それは大きな成果につながってゆくでしょう。 

 スポーツにおいては、いつもなんとなく勝てるチームと努力してもなかなか勝てないチームがあります。そんなチームを比較する中で、勝てるチームは一見古臭くて単調な練習ばかりしているようでも、基礎を重視し、正確な動作の集積を心がけて試合に臨みますが、勝てないチームは一見新しくて科学的な練習を工夫しているように見えても、基礎をおろそかにして応用に走っていることが多いものです。勝負を決める重要な場面では、正確な基礎の集積を生かせたチームが勝利に結びつくことは勝負の常と言えるでしょう。そんな、思いを感じながら「フラクタルの種」という冊子を製作しました。